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◆杉本大一郎氏の”外国語の壁は理系思考で壊す”から

 今日は、”外国語の壁は理系思考で壊す”(2010年10月 集英社刊 杉本 大一郎著)からの話題です。

 発想を変えて言語そのものの性格を科学的に理解することから始め、大きな概念で言語をとらえます。
 その論理構成や造語法を知ることでいつのまにか語彙は増え、使えるようになります。
 日本を代表する宇宙物理学者が新しく提唱する、理系のアプローチによる、画期的な外国語の修得法です。
 著者の杉本大一郎さんは、1937年生まれの宇宙物理学者で、東京大学名誉教授、放送大学名誉教授です。
 京都大学物理学部物理学科を卒業、同大学院理学研究科原子核理学専攻博士課程を修了し、理学博士になりました。

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 杉本さんは、この書で述べたいことの趣旨は、おおよそ次のことだと言われます。

・言葉は音で伝わるのではなくて、意味と内容で伝わる。

・だから大切なのは発音よりも語彙と論理構成である。

・外国語の造語法を知れば、語彙は芋づる式に増える。

・それは、努力せずに外国語を実用に使えるようになる近道である。

 英語を使いたいがなかなか出来ない、中学生の頃から何年もやってきたのに、という悩iみを抱えているのが、正直に言えば、ふつうです。

 そうなるのはなぜでしょうか。

 英語の先生に相談すると、英語を聞いたり、辞書を引いたりして勉強や練習にはげみなさいとおっしゃいます。

 しかし頑張らなくても身につく方法を考えてくれるのが先生というもののはずです。

 一方他の国では、それほどでもありません。

 彼らは日本人と比べて頑張って勉強しているわけではありません。

 日本人が外国語の学習に膨大な時間と努力を費やしているのに、そのわりに外国語を実用に使えるようになっていない状況は、膨大な国民的損失です。

 やはり何かが悪いということなのではないでしょうか。

 ここでは発想を根本から変えて、現実を見ながら、英語の先生の固定観念にはとらわれないで、科学的に考え直してみましょう。

 しかも楽しく。

 ただし「楽しく」ということは、テレビの語学番組によくある、遊びながら、観光旅行のような題材で、大して内容のない事柄をドタバタでという意味ではありません。

 言葉というものの性格を理解し、知的好奇心を多面的に満たしながら、という意味です。

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 杉本さんは、これまでの外国語修得法で反省すべきことは、学校で習っているやりかたが効果的とは限らないことだ、と言われます。

 それでも、英語のほうがましかもしれないといいます。

 話は変わるようですが、算数や数学は英語よりも長期間にわたって学校で習っているのに、定量的関係や数理言語を使いこなせないというのがふつうです。

 英語はそれほどでもありません。

 まずは自信を持ちましょう。

 杉本さんは、定年退職になるまで宇宙の物理学を職としてきました。

 そのため、数学や英語は「使うもの」だと思っているとのことです。

 2度目の退職前、最後の10年間は放送大学に勤めて、20歳代から80歳代までの人と付き合ったそうです。

 そこでの最大の問題は、英語や数学が使えないということでした。

 放送大学では外国語が必須になっていて、なかなか卒業出来ない人まで出たのです。

 そこで杉本さんは、「使える数理リテラシー」という講義とその教科書を作って、まずは数学のほうから何とかしようと思いました。

 その科目は、数学の先生からは「数学の精神と体系にマッチしない」として評価されませんでしたが、数理を使う人からは一定の評価をもらいました。

 杉本さんは、同じことを英語で出来ないかという希望を持っていたそうです。

 もちろん英語の先生がたに相談しましたが、乗ってもらえませんでした。

 数学の先生との考えの違いと同じようなことが、その根本にあると思っているそうです。

 それならどうすべきか。

 まずは、いわゆる「英語の教えかた」というものから離れて、現実を直視することです。

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 杉本さんは、これまでの外国語修得法で反省すべきことは、学校で習っているやりかたが効果的とは限らないことだ、と言われます。

 いわゆる「英語の教えかた」というものから離れて現実を直視するとき、注目点はいろいろあります。

 世界では発音のかなりおかしい英語が堂々と通用しています。

 文法的におかしいものであったり、綴りが間違ったりしていても通用しています。

 英語の先生は辞書を引けと言いますが、私たちが日本語を身につける過程ではほ
とんど辞書は引いていません。

 あなたが英語の辞書で引いた単語の数は、日本語を調べた単語の数の何倍ですか、 10 倍、それとも 100 倍、もっと?

 単語帳で英単語をその日本語訳に対応づけて「覚える」という努力は、本当に役立っていますか。

 学校では英語を翻訳させますが、話し手は翻訳に要する時間を待ってくれますか。

 英語の語彙が増えないのは、英語の造語機能を教えていないので、語彙が芋づる式に増えていかないからではありませんか。

 言語の扱いと認識に関して、脳科学の考えかたが取り入れられていないのではありませんか。

 伝統的指導方法が生徒や学生の足を引っ張っている典型的な例は物理学です。

 そして物理嫌いを生産しています。

 昔の偉い学者先生が、物理学はこういうふうに教科書を作り、組み立てていくものだという良い例を示しましたが、今でも一般向けの教科書がそれに引きずられています。

 英語や他の外国語の場合は、物理学の場合ほどには悪くありませんが、それでもやはり何かがピンボケです。

 その何よりの証拠は、努力のわりに身についていないことです。

 ・・・・・・

 これまでの外国語修得法で反省すべきことは、学校で習っているやりかたが効果的とは限らないことです。

 杉本さんは、最大の罪は英語の先生が英語は怖いと思わせるところにある、と言われます。

 自動車の運転でも、怖いと思っている人はなかなか身につかず、反射神経で運転出来るようになりません。

 自動車の運転は事故を起こすことがありますから、本当は怖いです。

 それに対し英語は契約文書にサインするとき以外は間違えても怖くないし、車の事故と違ってやり直しもききます。

 そこで英語は怖くないと思い直して、日本語を身につけたときのように、いつの間にか身につくようにしたいものです。

 杉本さんが60歳まで勤めていた大学には、多くの外国人教師がおられたそうです。

 ある日のこと外国人教師を囲む懇談会で、イギリスから来て英語を教えておられる女性の先生に尋ねてみたことがありました。

。「インド人の英語と日本人の英語、どちらがよく分かりますか。」
 
 当時、杉本さんはある分野で、日本とインドの共同研究組織でコーディネーターをさせられていました。

 杉本さんは、インド人の英語の電話に往生していました。

 その先生はしばらく考えておっしゃったそうです。

 「インド人の英語のほうがよく分かります。」

 ・・・・・・

 杉本さんはインド人の英語の電話に往生していたそうです。

 しかし、イギリスから来て英語を教えていた女性の先生は、インド人の英語のほうがよく分かるといいました。

 理由はどういうところにあったのでしょうか。

 イギリスにとっては、インドとの付き合いのほうが長いからです。

 インド人の英語といってもいろいろあります。

 巻き舌のカタカナ英語のような人が多いのです。

 それで非常に聞き取りにくいわけです。

 しかしこの先生の返事から分かるように、言葉が通じるかどうかは、主に相手との付き合いの程度によるのです。

 杉本さんは、言い換えれば、付き合いが深いと、相手が何を言うか、言いそうか、どんな音で言うか、分かっていて聞くからだと言われます。

 実際、わたしたちが日本語を聞いているときでも、言葉の一字一句を聞き取っているわけではありません。

 それでもキチンと通じ合っています。

 わたしたちは日本人との付き合いが最も長いからです。

 わたしたちが日本人の英語を聞いたときよく分かると思うのは、日本人がどのように日本語なまりの発音をするか、どういうふうに物事をとらえるかを知っているからです。

 ・・・・・・

 杉本さんは韓国人の英語は聞き取りにくかったのですが、あるときから韓国人の英語が聞き取れるようになったそうです。

 最近は日本に来る留学生の数もずいぶん多くなり、大学院に一時的に滞在し、日本で学位文を提出する人もいます。

 その人たちの学位論文審査会で困ったのは、韓国人の英語が分かりにくいということだったそうです。

 韓国語には濁音と半濁音の区別はなく、基本的にはパピプペポですが、それは前後の言葉の関係でバビブペボになったりします。

 最初に出てくるときの音は半濁音パピプペポです。

 例えば韓国の混ぜご飯はピビンパプですが、同じ音が途中に出てくるとビビンパプのようになったりします。

 その癖か、韓国人の話す英語では、しばしば濁音的な音も半濁音的になったりします。

 韓国人の英語が聞き取れるようになった理由は、韓国語をほんの少しだけですが勉強したからだそうです。

 韓国には10個の母音と14個の子音がありますが、それらの区別は出来ないので、適当に5個程度の母音でごまかしていました。

 しかし、濁音と半濁音の区別に強烈な印象を受け、ひととおりさっと勉強することによって、韓国人ならこの英語をどう発音するか分かるようになりました。

 そのとたんに韓国人の英語が聞き取れるようになったのでした。

 つまり付き合いが少しだけだが深まったので、よく分かるようになったというわけです。

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 杉本さんは、ロシヤ語は韓国語と対称的な言葉だと言われます。

 何しろほとんどがザジズゼゾのように濁音的で、韓国語の裏返しです。

 それに英語の R に対応するロシヤ文字 P(エル)は巻き舌の「ル」です。

 それを反映したロシア人の英語は、やはり聞き取りにくいと言われます。

 ただ、ロシヤ文字の音は日本語の音に似ているところがあって、ロシヤ文字をローマ字ふうにして日本語を書くと、かなり正確に表現出来ます。

 ですから、杉本さんは、日本人には比較的分かりやすいと思っているようです。

 もっとも、杉本さんは、若いときにロシヤ語を勉強したことがあるそうでので、そのせいかもしれないと言われます。

 なお、日本では「ロシア」と英語(Russia)ふうに表記されますが、ロシア語では русский で、最後の文字は a(アー)でなく й(ヤー)です。

 明治維新前の日本の開国の頃には、それぞれの国の人から発音を直接に聞き取って辞書が作られました。

 ですから、日本でロシアと言うようになったのは、(第2次世界大戦の)戦後からのことです。

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 杉本さんは、外国へ行ったときにはその国の人が分かるように話すのがエチケットだと言われます。

 イタリア人は th とd の発音が区別出来ないと、よく言われます。

 イタリア語で目立つのは、母音が多いことです。

 単語は多くの場合、母音で終わります。

 これは日本語の場合に似ていて、発音がはっきりして分かりやすいです。

 そのせいでもあるのでしょうか、イタリア人が英語を話していて、最後に軽 a(ア)という音が入ることが多いです。

 ちなみに日本ではイタリヤと言われることが多いですが、英語では Italy の最後が y だからでしょう。

 イタリア語では ltalia です。

 アクセントのあるところを大文字で表すと、ltAlia(イターリア)は

 CantAre(カンターレ、歌う)、

 MangIAre(マンジャーレ、食べる)、

 AmOre(アモーレ、愛する)

の国で、第1音節ではなく、第2音節にアクセントが来ることが多いです。

 これもアクセントがあまり目立たず、抑揚もあまりない日本語を話す日本人にとって分かりやすいです。

 外国からのお客さんを迎えるとき酒井さんは空港まで迎えに行かないそうです。

 大げさに出迎えてくれる開発途上国のまねはしたくないことと、インテリなら自分で考えて来てほしいということです。

 ただし、そのときには次のヒントを与えるそうです。

「日本で英語を通じさせようと思ったら、イタリア人になったつもりで話しなさい。入りうるところにはみな母音を入れて、さらにそれぞれの音を音楽のスタッカードのように切って話しなさい」

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 杉本さんは、イタリア人にとっては、スペイン語は知らなくても、スペイン人が話すおおよその意味は分かるのだそうだと言われます。

 語彙も発音も、アクセントも似ているからです。

 それはわれわれが、日本語ならば、地域の方言を知らなくても、意味がほぼ分かるのに似ています。

 言葉は厳密に正しくなくても、伝えようとする意思と内容があれば、通じるものなのです。

 立場を逆にしてみると、外国人が下手な発音の日本語で話しかけてきても、私たちはキチンとその意図を汲み取れます。

 言葉が通じるかどうかは、発音ではなくて、心なのです。

 たとえば、オーストラリアは英語国であるが、その発音はアメリカやイギリスの英語とはかなり違います。

 Today's newspaper says

は、トゥダイズ・ニュースパイパー・サイズ

という調子で、a は全て ai(アイ)のようになります。

 それでもオーストラリア人と他の英語国民の間で、会話は非常によく通じています。

 世界には、数えかたによりますが、何とおりもの英語があるのだそうです。

 オーストラリアの英語はそのひとつのカイス(caseケースをそう読みます、場合のこと)です。

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 杉本さんは、ご自分の外国語について語っておられます。

 白状すると、自分は外国語の発音は下手だし、流暢に話しているわけではないと言われます。

 それでも外国人とのコミュニケーションでは、別に困らないそうです。

 発音が下手なのは育ちによるもので、当時は機会に恵まれなかったのです。

 大学に入ったのは1955年のことですが、その頃はテープレコーダーがやっと人に知られるようになった頃でした。

 テレビや録音で外国語の音に接する機会は少なかったのです。

 せいぜい駐留軍向けのラジオ放送FEN(Far East Network)があったくらいでした。

 ただし、それは日本人向けでありませんので、教材にするは難しすぎました。

 最近は様子ががらりと変わりました。

 いろいろな国の言葉がテレビなどを通して音で、また字幕を通した意味として、広がっています。

 そして若い学生の発音は格段に良くなったし、流暢になったと感心していそうです。

 英語以外の言葉も広がっています。

 自動車や飲み物の名前には特に多いです。

 街にはアジアの言葉も溢れており、東京の地下鉄で電車を待っている間に韓国語のハングルや中国語の簡体字を覚えてしまうほどです。

 しかしそのことと、外国語が使いものになるかどうかということとはまた別です。

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 杉本さんは、天体物理学を生業にしてきましたので、外国人とのコミュニケーションの機会は多かったそうです。

 もっとも、いろいろな国のそれぞれ下手な発音の科学者と付き合っていたためか、ご自身の発音も一向に良くなりませんでした。

 それに、良くしようという気もありませんでしたので、良くなるはずもなかったのだといいます。

 科学は国際的なものですから、成果を発表したり、読んだり、議論を戦わしたりするのは、多くの場合、英語でするしかありません。

 その際、良くない発音を補うのは、論理と話の構成です。

 そのためには、語彙も正しい意味で使わなければなりません。

 それに生来、ものを書くときや、講演をするときに、日本語で考えておいたり、英語でも原稿を準備したりはしなかったそうです。

 話がどう発展するかは必ずしも予見出来ないからです。

 科学や事務文書などの外国語は、意味と論理と構成さえはっきりしていればやさしいですし、覚えなければならない事柄もそんなにありません。

 典型は数学・物理の概念や化学の物質名とそれらの教科書です。

 それらの概念は、比較的キチンと体系的に作られているからです。

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 杉本さんは、ご自分の英語についての事務文書での経験を述べておられます。

 30歳頃にアメリカに2年間滞在して、そのとき初めて税金の確定申告をしたそうです。

 確定申告は必ずしも返してもらわなくても、tax return と言います。

 帰国するときには、払うべき税金は全て納めましたということを証明して Sailing permit をとらなければなりません。

 それらは、もちろん、英語で書いた説明書を読んで、英語で書類を作るわけです。

 係官は杉本さんが提出した書類をチェックして、exCellent と評価してくれたそうです。

 つまり、杉本さんの英語は実用になったのです。

 そして帰国後、日本でも確定申告書を出すようになって、日本での税制が、何とアメリカのものに似ていることかと驚きました。

 戦後、アメリカをまねて作られたからです。

 貧乏学者でしたし、以前は外貨に比べて日本円の価値が大変低かったですから、外国でも損をしないように、ケチに振舞わざるを得ませんでした。

 例えば外国でタクシーに乗るときでも、自己防衛のためには、可能な限りその国の言葉を使うことが必要でしたし、それはエチケットでもあります。

 ですから外国へ行くときには、出来るだけその国の言葉に目をとおしておくようにして
いたとのことです。

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 杉本さんは、外国へ行くときには、出来るだけその国の言葉に目をとおしておくようにしていたとのことです。

 それでも、イスラエルのヘブライ語やインドのいろいろな言葉の文字は読めないそうです。

 それらの国では英語が十分に通じますので、易きに流れてしまうためです。

 似たような問題は、他のヨーロッパ語の場合にもあるようです。

 自動車を運転しているとき、交差点の地名の掲示は、英語だとチラッと見ただけで分かりますが、フランス語の地名だと、文字を見ないと分かりません。

 これは、英語は単語として(まとめて、漢字のように)読んでいますが、フランス語は文字(アルファペット)として読んでいるからです。

 その程度の外国語でも別に困らないのは、慣れと、語彙の正しい用法を知っていることと、論理や言葉、概念が好きだということがあるためのようです。

 世間では、

「良い発音をたくさん聞いて練習し、覚えて、外国語が使えるようになりなさい」

と言われます。

 それだと外国語学校は儲かっていいかもしれません。

 しかしそれには付き合っていられません。

 外国語は目的でなく手段と思っている人には、それとは異なるアプローチがあるのではないでしょうか。

 そこに、外国語の下手な人間が外国語との付き合いかたを語ろうと試みる理由があります。

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 杉本さんは、日本人の英語が通じにくいのは発音のせいではないと言われます。

 日本人の英語が通じにくいのは、RとLの発音が区別出来ないからではありません。

 これまで各国の人々の話しかたにある癖を見てきましたように、発音が適当いいかげんでも通じるものす。

 実際、アメリカ人の幼児はRとLの発音をきちんと区別出来ないのに、英語で意思の疎通が出来ています。

 高速道路の出口あたりで話をしていて、高速道路のrampと電灯のlampを間違って解釈する人はいません。

 どちらであるかは、音そのものよりも、その場の事情や内容によって通じるのです。

 アイ・ラブ・ユウは、あなたをこする(rub)のか、愛している(1ove)のか、音が不正確でもその場の状況で直ちに分かります。

 本来は日本語にない「ヴ」という文字を使ってvという音を表すのが高尚だとしている人がいますが、こんなことはありません。

 言葉は状況によって通じるもので、音だけで通じるものではないのです。

 その逆として、電話で話し合っていますと、同じ言葉で語られても話が通じにくいということがあります。

 状況が把握しにくいからです。

 もちろん、発音は正しいに越したことはありませんが、ある程度の年齢になると、外国語の正しい発音をするのは大変難しいです。

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 発音は正しいに越したことはありませんが、ある程度の年齢になると、外国語の正しい発音をするのは大変難しいです。

 杉本さんは、発音が難しいのは脳の構造の本性だと言われます。

 脳の中の音のネットワークは、幼児期までくらいに出来てしまいます。

 その後に別の音の体系を脳内に作るには、別の湯所を使わなければなりません。

 しかし、それぞれの場所はすでに別の機能のために使われていますから、今まで使われていた場所を若干改変するくらいしかできません。

 そういう出来そうにないことに労を費やすよりも、意味で通じさせる努力をするほうが賢いです。

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 このことの裏返しとして次のようなことがあるそうです。

 体に何らかの不自由がある人の場合、脳のある一部、いわば不要になり、そこでその部分を他の機能のために適用して、そちらの機能のほうが増強されることがあります。

 目の不自由な天才数学者(例えば、トポロジーのL.S. Pontryagin)などはその例でしょう。

 また、目の不自由な人は、ふつうの場合に比べて3倍ものスピードで話されても聴き取れるといいます。

 ふつうの速さで話されたものを録音し、それを3倍の速さで再生すると、音が1オクターブ半も上がってしまいます。

 しかしデジタル技術を使うと、周波数を上げずに早口に変えることができますので、そのようなことが、実際に試されています。

 そこまで言わなくても、目の不自由な人が交差点で鳴らされている音の違いを認識し、どちらの方向が青信号であるかを判断して、安全に渡っておられます。

 目の見える人にはまねが出来ないことです。

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 杉本さんは、英語はやや変わった言葉だと言われます。

 音の話をしたついでに、文字のことも見ておきます。

 主にヨーロッパ語で比較します。

 英語の話をしているのになぜ他の外国語をと思われるかもしれませんが、次のようなことがあるそうです。

 それぞれの地域や国の文化的背景になっている言葉に関して、ある程度の知識とか語彙の概念構成に対する理解が必要です。

 つまり「言葉」というものに対する理解を持つことが、英語が使えるようになることの基盤になるのです。

 特にヨーロッパ語についてある程度の理解を持つと、英語の使いかたが芋づる式に広がっていきます。

 英語の音は、ヨーロッパ語の中でもやや変わっているそうです。

 AとかB、またIは、他の多くの言葉ではアーとかベー、イーと読まれます。

 エイとかビー、アイのように読むのは、むしろ英語だけです。

 また英語では、同じ文字でも異なる文字の並び(単語)の中に現れたときに、異なる音になることが多いとのことです。

 ですから、子供はもちろん、大学生でも、英語を表記するときに綴りを間違えることがしばしばあります。

 この現実は、社会がそれに対して鷹揚だということで、あまり気にすることはないということでもあります。

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 杉本さんは、英語はやや変わった言葉だと言われます。

 単語の活用形ということについても見てみますと、言語学ではヨーロッパ語の多くは「屈折語」に分類されます。

 屈折語の場合、単語は他の単語との関係によって、語尾変化という活用をします。

 動詞は人称、性、単数・複数、時制などによって語尾を変えます。

 名詞は動詞とのかかわり(主格、所有格[生格]、対格、目的格、造格、加置格など、言語によっていろいろあり)で、形容詞は名詞とのかかわりで語尾を変えます。

 ですから主語になる代名詞を明示しなくても済む言葉も多いです(例えばスペイ
ン語)。

 その点、英語は主語の代名詞がはっきりしていると言いますが、そうせざるを得ないのです。

 なお、日本語にも主語が明示されない傾向がありますが、事情は全く異なります。

 日本語では動詞は主語の人称などで変わることはありません。

 どういう文脈で使われているかで、主語を推測せよということなのです。

 他のヨーロッパ語に対し、英語での語尾変化は、

・主語が単数のときに動詞の語尾に-sがつくとか、

・(規則)動詞の過去形には語尾に-edがつくとか、

・名詞が複数のときに語尾に-sがつく

くらいしかありません。

 語尾変化はほとんど消失してしまっているのです。

 2004年に来日し2010年には大関に昇進した把瑠都の出身国であるバルト海沿岸の国エストニアの言葉では、名詞が14にも格変化をするのと大きく異なります。

 ですから英語ではそれを補うものとして、前置詞とその使いかたが豊富になり、文の中での語順を厳密に守ることが、他のヨーロッパ語の場合に比べて大切になります。

 すなわち主語S・動詞V・目的語O(または補語C)の順序(SVO型)でなければなりません。

 これは日本語の語順と異なりますので、日本人にとってその流れに乗ることは、最初は難しいです。

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 杉本さんは、翻訳してはいけないと言われます。

 英語の先生が作ったもうひとつの罪は翻訳です。

 今は昔ほどではなくなったようですが、以前の学校では必ず翻訳をさせられました。

 杉本さんも、50年以上前に習った高校の先生が強調していたのは、「英語は後ろから訳す」ということでした。

 漢文のように返り点をつけながら読めというわけです。

 そうなるのは、日本語の S O V と英語の S V O とでは、語順、つまりシンタックス(syntax)が全く違うからです。

 これは目的語 O でなくても、補語 C でも同様です。

 そこで、それを日本語の順に並べ替えるのは、センテンスの終わりまで行かないと出来ない、とその先生は言っていたのでした。

 ところが、センテンスの終わりまで話されたときには、次のセンテンスが始まっているのです。

 翻訳をしながら聴くと、相手が話すのについていけるはずがありません。

 そのようなことは主文だけでなく、関係代名詞で結ばれた副文なら、長いからなおさらです。

 それを終わりまで聞いて、「〜であるところの〜」と訳しなさいと習ったそうです。

 会話でなく訳読なら、自分のペースで訳せますから、それも可能です。

 しかしそれでは面倒で、読む気がそがれます。

 さらに悪いことには、そのような癖をつけると、影響は聴き取るときにまで及びます。

 ・・・・・・

 杉本さんは、話される順序のままに理解していこう、と言われます。

 翻訳をしながら聴くと相手が話すのについていけませんので、英語を使えるようになるためには翻訳してはなりません。

 述べられたないしは読んできた途中のところまでを頭から理解して、繋いでいくことを身につけなければならないのです。

 ヨーロッパ語での発想法はそれに向いていて、大切なところから先に述べる習慣があります。

 これは言葉のレベルでも、文脈のレベルでも、長い論を展開する場合でもそうです。

 Yes/Noがはっきりしているのも、それと関係があります。

 最初に No と言われれば、その後に not のある否定文が来るに決まっています。

 それも初めのうちに出てくる動詞 V につくのです。

 ドイツ語のように SOV 的なものでは、nicht(=not)が動詞Vと共に文末に来ることがあります。

 それでも最初に Nein(=No)、と言われていますので、そのことが予測出来、最後になってどんでん返しをくらうわけではありません。

 そんなことを言われても、日本人にはついていけないと思うかもしれません。

 しかし考えてみると、漢語(漢文)は SVO ですから、実はわれわれはそれにも慣れているのです。

 「不」、「無」、「非」など否定の語が先に来るのも、英語と同じです。

 読書は「書を読む」、署名は「名を書きしるす」、押印は「印を押す」ことですし、不払は「払わない」、無料は「料(はか)らない」、非常は「常のよ)でない」です。

 「私は本を読む」でも、「私は読む本を(lread a book)」でも、どちらでも良いという気になれば、別に難しくはありません。

 ・・・・・・

 杉本さんは、否定の言葉の使いかたについて述べておられます。

 Yes/Noに関連して、肯定か否定かということは大変重要なことです。

 それ自身が否定の意味を持つ言葉については、そのとらえかたや使いかたは、言語によって異なります。

 日本語で「何もない」と言うとき、「も」は続いて否定する語があることを予測させます。

 英語では Nothing is there. と言いますが、「何もないもの」が「ある」というわけです。

 ドイツ語では kein という否定の意味を持つ不定冠詞があります。
 
 keine Arbeit というのは「失職(職を失う)中」ということです。

 ヨーロッパ語がそのようになっているのは、肯定的な語ないしは概念があると、それに対する否定的な(反対)概念を表す語も、対になって存在するからでしょう。

 例えば encourage(勇気づける)に対して discourage(落胆させる)です。

 英語では初めの部分を除いて、どちらも同じ言葉(courage)ないしは概念からります。

 それに対し、日本語は音の全く異なる語が対になっています。

 ただ否定との関係には、言語による違いがいろいろあることも知っておいたほうがよいでしょう。

 例えば「何もない」と言うとき、英語では

 Nothing is there. とか

 There is not anything. とか

で、否定の語は繰り返しません。

 それに対し、ロシヤ語では ничего не です。

 対応する英語に入れ替えると

 Nothing there is not.

になります。

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 杉本さんは、否定の言葉の使いかたについて述べておられます。

 Yes/Noに関連して、肯定か否定かということは大変重要なことです。

 しかし、否定の疑問文に対する答えとしてのYes/Noにはやや難しいところがあります。

 英語では

 Do not you like it?

に対して、

 好きなときはYes、好きでないときはNoです。

 日本語だと、どちらでも「はい」とも「いいえ」とも答えられ、あいまいなことがしばしばあります。

 どちらなのかは、それに続く文で判断してくださいとか、状況や答えかたの調子で判断してくださいということになります。

 つまり「はい/いいえ」にはヨーロッパ語ほどの重みはありません。

 むしろ、「はい」というのは、「あなたが想像しているとおりです」というのに近いです。

 ドイツ語では Ja(ヤー)/Nein(ナイン が英語の Yes/No にほぼそのまま対応します。

 ですが、「あなたは好きではないのか」という否定的疑問文に対して、「いや、好きだ」と答える場合には、Doch(ドッホ、だがしかし、それでも)を使います。

 これは、相手の想像を 慮って答える日本語に似て見えますが、 Ja を意味している場合にしか使いません。

 嫌いなときは Nein と言います。

 ・・・・・・
 杉本さんは、およそ40年前、幼い娘を連れてアメリカで暮らしたことがあるそうです。

 娘さんは最初は幼稚園児でしたが、帰国時には小学生になっていました。

 外で遊ぶときやキンダーガルテン(ドイツ語のKindergarten)、つまり幼稚園ではもちろん、英語で話しました。

 しかし、家では日本語を話していました。

 ある日、その娘さんが外でけんかをして帰ってきたそうです。

 何が起こったのか尋ねてみたそうですが、娘さんは日本語では説明出来ませんでした。

 英語でしたけんかは英語でしか脱明出来なかったのです。

 これは、子供は翻訳という作業を行っていないことを意味します。

 つまり日本語と英語は、子供のときから使っていると、脳の違う場所で処理されるようにるなのです。

 これがバイリンガル(bilingual)というものです。

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 杉本さんは、日本語と英語はパラレルプロセッシングだと言われます。

 パラレルプロセッシングとは並列処のことで、コンピュータに複数の処理装置を内蔵し、複数の命令の流れを同時に実行することです。

 コンピュータの言葉で言うと、ふたつの異なる演算を異なるプロセッサーで同時にやるのが並列処理です。

 一台のコンピュータに複数のCPUを搭載して並列に処理を行う方式を、マルチプロセッサと言います。

 キーボードで日本語を打つとき杉本さんは、すでに30年ほどカナ文字でインプットしているそうです。

 英文タイプライターは20歳になる前から打っていて自由に使えるのですが、ローマ字インプットにはしないと言われます。

 杉本さんは理科の人間で、日本語で書いていても外国語や数式記号などのラテン文字やギリシヤ文字が混ざってきます。

 そのときに、ローマ字と外国語との切り替えだと混乱が起こりますが、カナ文字とラテン文字だと何も意識せずにスムースに切り替わるからだそうです。

 その上、カナ文字人力だと、ローマ字に比べて押すキーの数が半分で済むという特典があります。

 カナ文字人力だと、カナ・漢字変換の辞書に登録するときにも便利です。

 例えば「あり」に「有難うごさいます」を登録しておくと、インプットはキーふたつ(2 strokes)と変換を押すだけで済みます。

 そしてカナ文字の2 strokesは、2500(=50×50)個ほどの単語(短文)を区別出来ます。

 ラテン文字の2 strokes(=26×26)に比べると4倍も区別出来ますから、カナ文字なら
変換辞書には2文字で登録しておくだけで十分に実用になります。

 メモを取るときのコツです。

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 キーボードで日本語を打つとき杉本さんは、すでに30年ほどカナ文字でインプットしているそうです。

 英文タイプライターは20歳になる前から打っていて自由に使えるのですが、ローマ字インプットにはしないと言われます。

 杉本さんがカナ文字人力を長年続けてきて、分かったことがあるそうです。

 日本語でインプットするときと英語でインプットするときとは、独立に、脳の異なる場所で分担して理が行われているらしいということです。

 ですから日本語の文章の中に英語が混じってきても、混乱が起こることなく、指が無意識に対応します。

 情報を処理する脳の部分が、無意識のうちに切り替わっただけなのだと言われます。

 日本ではローマ字入力をする人が多いようです。

 ローマ字でインプットする人は、例えば「アインシュタイン」という語をインプットするときに、どのように脳が働いて、ainsyutainと複雑に指が動くのでしょうか。

 杉本さんは、自分なら混乱してしまうと言われます。

 ラテン文字を打つのなら、ドイツ語でEinsteinとしか出てきません。

 それは英語などを打つときには、アルファペットを1字ずつ打つのではなく、綴りの意識なしに、ひとつの意味を持つ単語として打っているからです。

 字画の意識なしに漢字を書いているのと同様です。

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 さきに杉本さんが「翻訳してはいけない」と言ったのは、聴いたり読んだりしている最中のことでした。

 つまり、「話がある速さで流れている最中に翻訳しないで」ということでした。

 一方で、日本語で読む人のために翻訳しなければならないこともあります。

 杉本さんは、翻訳するには単に言葉としての外国語が分かっているだけでなく、内容が分かっていないとだめだ、と言われます。

 かつてある出版社の編集委員会から、

 「フランスの事典を翻訳するのに、天体とか宇宙とかの項日をある人に依頼したのだけれど、何かおかしいので見て欲しい」

と、頼まれたそうです。

 依頼された人は物理学者であったらしいのですが、天体現象に関する項目には多くの誤解や筋のとおっていないところがあったようです。

 そういう箇所の数は赤字を入れて訂正するくらいでは済まず、書直しが必要でした。

 そこで、翻訳者を変えてやり直してもらってくださいと言うことにしたとのこと。

 その結果、キチンとした翻訳が出版されたそうです。

 編集委員会に尋ねたところ、最初に依頼された訳者はフランス語の大変得意な人だということでした。

 杉本さんは、フランス語の堪能さはほどほどでもよいから、内容のキチンと分かる人に選び直さないといけない、ということでした。

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 放送大学でテレビ番組を作るとき、外国人とのインタビューなどでは、画面に日本語の字幕を入れなければなりません。

 数十分にわたる話を日本語の文字にするのは、結構な時間がかかる仕事になります。

 そこでディレクターに勧められて、杉本さんはそういう翻訳と文字化を有料でしてくれるところに依頼することにしたそうです。

 ただし理科系の番組では専門用語が出てきますから、用語の対訳集をつけて欲しいということでした。

 どのくらいのものを専門用語と言うかは、翻訳する人の知識との関係で決まりますが、100個を超えるものを用意したそうです。

 ところが、翻訳されて返ってきたものは、使いものになりませんでした。

 話の文脈上から大切なところの多くが抜け落ちたり、間違った話になっていたりしていました。

 まあまあの翻訳は日常会話のレベルのところだけでした。

 そして役に立ったのは、それぞれの画面に入れられる文字数はいくつくらいまでかという情報のみでした。

 そのようなことになってしまったのは、内容が理科系だったからということが大きいようです。

 日本では、人によって文化への理解が偏っているからです。

 日本人が書いた英語をネイティブの人に直してもらうときにも、同様のことが起こるそうです。

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 杉本さんは、科学論文は世界中の誰でも読めるように、英文で書くのがふつうだと言われます。

 日本で出版している英文の学会誌の場合には、編集委員会がネイティブの人に依頼して英文を直してもらうことがあるそうです。

 一応はその分野に近いことを専門にする人に依頼していのですが、・・・

 その結果は、ふつうの文章のところではなるほどと思うような直しかたがしてありますが、肝心のところはピンボケの直し方だったりするそうです。

 また、間違った意味に変えられたりしていることが少なくないとのことです。

 理由は簡単で、論文というのは、それ・まで考えられていなかった事実、解釈、体系について書くものだからです。

 直す人がその内容を正しく理解し得る人だとは限らないのです。

 投稿された論文はピアー・レビュー(peer review)に回されます。

 Peerとは地位などが同等の人、同じ専門分野の人のことで、その人がreferee(審査員)としてreview(査読)します。

 杉本さんの友人で、投稿経験があまりない人の投稿した論文が外国人のレフェリーから返されてきました。

 投稿者はレフェリーのコメントに従って書き直して編集委員会に送り、それがレフェリーに再送されました。

 ところが 、それがレフェリーを怒らせてしまったそうです。

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 杉本さんは、話は音よりも内容で通じると言われます。

 アメリカに住んでいて子供をプールに連れていったとき、プールでの安全を看視している人が何かの注意を短い言葉で皆に与えました。

 杉本さんには何を言っているのか聞き取れなかったそうですが、子供はキチンと聴き取っていたそうです。

 子供は音だけで聞き取っていますが、大人になると意味内容を通して音を判断しているということです。

 ですから、何の話が出てきそうか分かっている場合を除くと、単に単語を発せられたようなときは、大人には聴き取りにくいのです。

 しかし、文や文章になっていて内容があると、聞き取れない言葉でも話の辻棲が合うように聴き取ってしまいます。

 勝手に想像してしまうというほうが正確かもしれません。

 これは、日本語の場合も常に経験することで、逆に、発音が必ずしも正しくなくても、内容さえあれば通じるということでもあります。

 このことは、両面の効果をもたらします。

 地下鉄の車内のような激しい騒音のもとでも意味のある話は聞き取れるという良い面と、自分の都合の良いように誤って聴き取ってしまうという悪い面です。

 例えば、駅の名前などは自分の知っている地名として聴き取ってしまいます。

 ですから、音が通じなかったときには、同じ内容のことでも異なる語彙と構文を使って、より豊富な内容にして言い直しなさいということになります。

 音だけでは通じなかったのですから、同じ言葉を再び繰り返しても通じるはずがありません。

 これらのことは、日本語でも、コミュニケーションを成り立たせるのに大切なことです。

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 杉本さんは、話の構成は単純にすべきと言われます。

 内容を文に構成するときに大切なのは、より広い概念が最初に出てきて、その後で、より詳しく絞られていくこです。

 パソコンで多数のファイルを整理するとき、ツリー構造という階層構造を作って分類していくのと同じです。

 まずは、根、幹、次いで、枝、小枝、葉というわけです。

 話が互いによく分かっている場合とか、単純な話ならよいのですが、最初から「葉」のレベルの話を出すと、何のことだか分かりません。

 インターネットなどで使われる「ホームページ」いう言葉の home は、本来、その人のページの root であり、そこから入って辿っていく入り口のことです。

 今では単に、インターネット上のウェブ、つまり、蜘蛛の巣のように張り巡らされている個々のページ、という意味に使われています。

 ある特定の人のものでなく、あるテーマに関する集まりの入り口のことは、ポータルと呼ばれます。

 これもそのテーマでの root にあたるものです。

 そしてそれらの root から始まって、階層構造的に検索していけるのです。

 このような階層構造の作りかたと使いかたは、数学の集合論的な概念と演算に従って構成されています。

 最近はインターネットの検索エンジンの効率良い使いかたとして、多くの人が身につけています。

 そして、その順序で理解も進むことに慣れると、話の展開に応じて、枝までなら枝、小枝までなら小枝まで、途中なら途中までなりに理解していけます。

 そのように構成すれば、聞く人は話の流れに素直についていけます。

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 杉本さんは、話の構成は単純にすべきと言われます。

 この発想法は、書きものをまとめるときも同様です。

 英語で論文を書くときの第1節には、取り上げる問題のよって来るところを最初に、次いでその論文で言いたいこと(結論)を記述します。

 第1節以降でそのような結論になる根拠や理由を述べます。

 そして最後に話をまとめて、結論を再確認します。

 このような展開のしかたは、最近よく話題になるプレゼンの進めかたと同じです。

 これは、理由をいろいろと述べてから最後に答えを言うという、日本語での話の進めかたや順序とは逆です。

 日本語式の順序だと、どういう点に注目しながら理由を批判的に見ていけばよいのか、一体何が言いたいのか、途中まで読んだだけでは分かりません。

 英語での展開では、途中まで読んだら、そこまでのことはそれなりに、つまり話の展開の順序どおりに分かります。

 この「順序どおりに」というのは、文章の順序についてだけでなく、その中のひとつの文についてでも、そうでなければなりません。

 すなわち文末のピリオドまで来なくても、その途中までならそこまでで、それなりの理解が出来るように作らなければなりません。

 このことは、話し言葉の場合には、その前の言葉が消えてしまっていますから、特に重要です。

 ですから英語でコミュニケーションをするのなら、最初から脳の英語領域で考えて、英語で発想したほうがよいのです。

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 杉本さんは、外国語の難しさは語順よりも語彙にあると言われます。

 どのようにすれば、順序どおりに作文したり、理解したり出来るようになるのでしょうか。

 日本語と同じ語順になる例は韓国語で、日本語と同じくSOVです。

 ですが、われわれにとってこれも結構難しいです。

 語彙とその音との対応が難しいからです。

 英語の場合でも、語順よりも語彙の方が難しいです。

 話の途中で分からなくなるのは、語順よりむしろ知らない単語が出てくるからです。

 知らない単語が出てくると、聴き取れないだけでなく、そこで何のことだろうと思います。

 するとその間に話は進んでしまって、理解の流れに取り返しがつかなくなります。

 どうすれば良いのでしょうか。

 私たちが日本語を聞いたり読んだりするときにどうしているか、見直してみましょう。

 実際には、私たちは全ての語を聴き取っているわけではありません。

 まして自分の知らない事柄、新しいことの話では、知らない単語や酬彙も出てきます。

 そのとき私たちがしているのは、それらを適当に聞き流し、残りの聴き取れた言葉で辻棲の合うように話を構成して理解しているのです。

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 会話しているとき、実際には、私たちは全ての語を聴き取っているわけではありません。

 まして自分の知らない事柄、新しいことの話では、知らない単語や酬彙も出てきます。

 しかし杉本さんは、私たちは決して聴き取れない語彙のところで立ち止まったりはしない、と言われます。

 その後を聴き取りますから、取れる情報量も多くなりますし、それを使って話の全貌を自分で作り出すことも出来ます。

 もちろん、そのために理解が不十分になったり、部分的に誤解するもとになることはあります。

 しかし立ち止まったために、その後が全部分からなくなってしまうよりも、はるかに良いでしょう。

 会話のときはその点を聞き直すことも出来ます。

 そのとき、聞き返されたほうは同じ単語を使って復唱するのではなく、同じ内容でも異なる語彙を使って言い直すことに心がけねばなりません。

 その語を知らないので聞き取れなかったからです。

 このような言い直しを受けることを通して、元の分からなかった語彙も身につき、言語活動が広がっていきます。

 ですから日本語は辞書を真面目に引かなくても、その人の語彙が増え、身についてきたのです。

 もうひとつ大切なことは、言葉の構造や成り立ちについての感覚を養うことです。

 言葉が持つ世界を知ることだと言ってもよいでしょう。

 日本語の場合には、それはいつの間にか身についてきました。

 ですが外国語の場合はより難しいのです。

 その理由は、文化圏の異なる外国語では、概念構成ないし概念の切り分けかた、切り分けられた概念とそれに対応する単語が、日本語の場合とは異なるからです。

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 杉本さんは、歳を取ると聴き取りにくくなると言われます。

 歳を取ると耳が遠くなるのには、ふたつの理由があるそうです。

 ひとつは、音を聞く器官の感度が全般的に落ちでくることです。

 これは話し声や器機のボリウム(量)を上げることで補われます。

 補聴器で音を増幅するだけでよいのです。

 もうひとつの、そしてもっと大切なことは、振動数(周波数、単位はヘルツ)の高い音(高音)に対する感度が、より大きく落ちてくることです。

 その結果、バイオリンの音がポワッとした聞こえかたになってしまいます。

 その効果は話し声のように、「平均としては」低い周波数(200〜400ヘルツ)の音にも現れて、正確に聞き取れなくなってきます。

 話し声の音域は平均としては低くても、音の詳細が周波数の高い成分を含んでいるからです。

 そしてモゴモゴした発声のようになり、何を言っているのか分かりづらくなります。

 それに対し、若いときには440ヘルツ(ピアノでよく使う音域の音)の5オクターブ上でも、容易に聞き取れます。

 ですから赤ちゃんがテレビのそばに長時間いると、刺激が強すぎることになるのです。

 そのことを利用したのが、モスキート(蚊)音です。

 夜な夜な公園に集まって騒ぐ若者を追い払うために、成人には聞こえないが若者には聞こえる高い陶波数の大音響を流す装置が作られました。

 モスキート音とは、17kHz付近の高い周波数の音のことを言います。

 一般的に耳年齢が下がってくる30代では、その高い周波数が聞こえにくくなると言われています。

 蚊が嫌うとされる17kHz付近の高周波数のモスキート音を発生させる、虫よけ付きのモバイルバッテリーが販売されています。

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 杉本さんは、言葉は音の聞き取りだけで理解されるのではないと言われます。

 音を聞いても、それから意味や内察を「聴く、聴き取る」ことができるかが問題です。

 高齢者の聴力を補うものに補聴器があります。

 高価な補聴器は、いろいろな周波数に対して使用者の聴力の落ちかたを補正するように調節してくれます。

 逆位相で雑音部分を取り除くnoise cancellerつきのものもあります。

 逆位相は、音波や電波などの山と谷を繰り返している波形において、基準になっている形と真逆(180度逆)にしたものを指します。

 しかしずいぷんとお金をかけても、必ずしもよく聞こえるようにはりません。

 それには、高齢者の耳が遠くなるもうひとつのさらに重要な要因が関係しています。

 単語明瞭・意味不明瞭ということがあるのです。

 話される単語は明瞭でも、話の辻棲が合っていないので、言いたいことがよく分からないということです。

 ここでの問題は、それよりもう一段戻ります。

 音は明瞭ですが、単語にキチッと結びつかないということです。

 私たちが日本語で話しているとき、日本語の音は正しく発音しています。

 しかし聞き手は、その音を全て聞き取って再構成しているわけではありません。

 単語のレベルでも、文のレベルでも、重要と思われるところだけをキチンと聴き取り、そうでもないところは聞き流しているのです。

 そして重要な言葉の間を自分で補完しながら、意味を再構成して理解しているのです。

 ですから、間違った聴き取りかたをしたり、都合の悪いところは聞こえなかったりすることがあります。

 歳を取ってそのような再構成力が落ちてくると、何を言っているのか「聴き取れなく」なるのです。

 これは補聴器では補えません。

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 杉本さんは、人間の言語能力は、重要な言葉の間を自分で補完しながら、意味を再構成して理解していけるように鍛えられていると言われます。

 そのような意味論的 Semantic な聴き取り能力が高いことを典型的に表す例があるそうです。

 地下鉄の中のように大きい騒音の中でも、意味のある話し声は聴き取れるということがあります。

 補聴器を使ったら雑音ばかりが耳障りになったというのは、意味論的な聴き取り能力が落ちてきたことを示唆しています。

 慣れていない外国語に対しては、その言葉に対する意味論的な聴き取り能力が低いのです。

 すなわち、把握力が低いから、同様なことが起きます。

 それを克服しようとするとき、単に音を正確に聞く能力を磨くだけではピンボケです。

 より大切なのは、外国語単語の語彙とそれぞれの酬に対応する概念と、その体系を脳の中に納めることです。

 逆に、これがあれば音自身が正確に聞き分けられなくても、話されている内容も想像がつき、聴き取れます。

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 杉本さんは、話は語彙を通して伝わる、と言われます。

 われわれは音を聞き、それを自分の脳にあるいろいろな概念と照らし合わせて認識します。

 照らし合わせるべき語彙なり概念の集まりが脳の中にないと、何を言っているのか分かりません。

 電車のアナウンスで知らない駅名を言われると、聞き損なったり、自分の知っている別の駅に結びつけてしまったりするのはその例です。

 自分の都合の良いように聞き取ってしまうのも同じ話です。

 講義は聴講者が知っていない事柄や解釈について話すのですから、聴講者にとって新しい語彙が出てくるのは当然です。

 そして講義をする人は、その語彙に特に気を配って話の中に配置し、言い回さないと、単語の音だけで通じるはずありません。

 それを補うひとつの方法は黒板への板書です。

 一般のテレビ放送では適正に、大きい文字で入れられていて、分かりやすくなっています。

 インタビューなどでは、答える人が口をあまり開けずに話す人の場合でも、文字を見ながらだと聴き取れます。

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 杉本さんは、外国語で哲学の本、法律や契約の文書、コンピュータのマニュアルを読んでもよく分からないと言われます。

 しかし同じ内容のものを日本語(訳)で読んでも、同様に分りません。

 カントの Kritik der reinen vernunft をドイツ語で読んでも分からないのは、分かるように書いてないからです。

 訳本の”純粋理性批判”を日本語で読んでも分りません。

 ですから起こっているのは、外国語が使えないのではなくて、そこに出てくる概念・語彙・論理が分からないということなのです。

 外国語が出来ないと思って悲観することはありません。

 逆に、概念・語彙・論理がツーカーであれば、外国語が下手くそでも伝わるという例に、科学者の国際研究会があります。

 それは英語で行われるのがふつうですが、英語以外のいろいろな言語を母国語とする人たちが集まって行われます。

 そしてそれぞれのお国なまりの略語やイントネーションで研究を発表し、議論し合っています。

 その分野に関係のない人が聞いていると、何のことを何語で言っているのかいぶかるようなときでも、話はキチンと通じています。

 研究分野をとおして、おたがいが共通の語彙や概念体系を持っているからです。

 それに互いに、議論してコミュニケートしたいという意欲に満ちた会話だからです。

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